道徳の教科化 心を枠にはめぬよう

 2018年4月2日の朝刊の社説より、「道徳の教科化 心を枠にはめぬよう」の引用!
 これまで教科外の領域とされてきた道徳が今春から小学校で、来春からは中学校で正式な教科となる。国が定めた価値観が押し付けられないか気がかりだ。子どもの自由に考える心を尊重したい。
 道徳の教科化を警戒する声はいまだに根強くある。なぜか。
 かつて、教育勅語に基づく修身科を核とした軍国主義教育が、戦争に国民を駆り立てる役割を果たしたからだ。国が指定した価値観を注入するというやり方での道徳教育は危うい。それが歴史の教訓だった。
 戦後七十年余。再び徳目主義による道徳教育が強められた。
 「節度、節制」「感謝」「家族愛」といった徳目の価値を検定教科書で学ばせ、その成果を評価して通知表などに記述する。愛国心をはじめ、教育勅語でうたわれたほぼ全ての徳目が含まれている。
 子どもの道徳性を高める学びは大切だ。しかし、国が望ましいとする人物像に照らして成長ぶりを見取り、評価しては、国にとって都合の良い国民性ばかりが育まれることになるのではないか。
 道徳の教科化は、二〇一一年に大津市で起きた男子中学生のいじめ自殺が契機になったとされる。
 一七年度の全国学力・学習状況調査では、小学六年生、中学三年生のいずれも九割以上は「いじめは、どんな理由があってもいけないこと」と答えている。それなのに、後を絶たないのはなぜか。
 徳目の価値を説き、子どもの心のありようを規制しても実効が上がるとは思われない。心の問題として捉えさせるあまり、いじめの背景に潜んでいるかもしれない家庭や学校、社会の矛盾がかえって覆い隠されては困る。
 道徳教育の強化により、社会的課題に対する批判精神を欠き、現状を安易に追認、順応するだけの子どもが増える事態を恐れる。
 国は「考え、議論する道徳」を掲げて、そうした懸念を否定している。物事を多面的、多角的に考え、主体的に行動する基盤となる道徳性を養うという。
 だが、学ぶべき価値観が決められていては、議論する意味合いは薄れるだろう。評価を気にする子どもは、本音と建前を使い分けて振る舞うかもしれない。
 国語や算数などの教科とは異なり、道徳は科学ではない。道徳性とは本来、具体的な暮らしや人間関係を通して備わるものではないか。抽象的で画一的な徳目にこだわらず、個々の子どもの実情や境遇を踏まえた教育を望みたい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018040202000155.html
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残業削減の陰で「時短ハラスメント」 働き方改革の矛盾

 2018年2月12日の朝刊より、「残業削減の陰で「時短ハラスメント」 働き方改革の矛盾」の引用。

 「働き方改革」の掛け声の下、多くの企業が残業時間の削減に取り組む。しかし単に労働時間を短くしようとすると、働く人にしわ寄せがいく。業務見直しのないまま、残業を認めず、「生産性を向上させろ」とだけ迫る事態を「時短ハラスメント」と呼ぶ向きもある。専門家は問題解決には、仕事の量や役割分担の見直しも必要と訴える。
 「『生産性を上げろ』と言われて、精神的につらい」。都内のIT企業に派遣されている五十代のシステムエンジニア(SE)の男性は嘆く。
 男性はSE歴約三十年。約二年前から、他の派遣SEとチームで新しい文書管理システムを作っている。業務量は多く、男性のようなベテランでさえ、「残業しないと達成できない」という。
 その一方で会社は残業を認めない。男性も派遣元を通じて申し入れたが断られた。直接、派遣先にお願いすると、「働き方改革に伴って残業は認められない」「業務量は適正。時間内に終わる」と取り付く島もない。
 男性の勤務時間は午前九時から午後五時半。強制消灯になる前の午後六時まで残業するが、報告書では午後五時半で作業が終わったことになっている。
 始業前は会社から注意を受けないため、午前八時すぎに出社している。昼休みの一時間も出社前に買ったパンをかじりながらパソコンに向かう。チームの仲間も同じように早朝出社で業務にあたっている。
 男性は「残業時間に時給を単純に掛けた場合、未払い残業代は月十万円にはなる」と話す。「引き受けた以上、しっかりやり遂げたいが、あまりに理不尽。働き方改革というけれど誰のため」と疑問を呈す。
 いわゆる「サービス残業」だが、会社に請求できないのか。
 労働問題に詳しい名古屋北法律事務所の白川秀之弁護士は労働時間と認められるかがポイントと指摘。「会社が労働時間と認めなくても、期間を定めて命じられた一定量の業務に対し、労働者が勤務時間内には達成できないと申し出ていれば、労働時間として認められる場合がある」
 具体的には、業務を達成できなかった場合、給与額を減らすなどの不利益がある▽「達成不可能」との労働者の申し出に企業が対策を講じなかった▽早出や休憩時間内の労働を会社が認識していた-などの場合は労働時間として認められる場合もあるという。
◆記録残しておいて
 今回の男性SEはどんな対策を取ればいいか。まず派遣元に改善を求め、なされない場合は労働基準監督署に申告する。一方で日々の勤務実態の詳細をメモしておき、「勤務時間内では業務が終了しない」などと申し出ていた派遣先へのメールも残す。白川弁護士は「争いになった場合、記録を残して提出することが大切になる」と話す。
 本来は健康を守るための残業時間削減の動きが、結果として労働者にサービス残業を強いることについて、働き方評論家の常見陽平さんは、管理者が部下の労働をよく知ろうともせず労働時間だけ削減しろという「時短ハラスメントが起きている」と指摘する。「仕事の絶対量が減らない中、現場の創意工夫だけでは限界がある。結果、サービス残業が誘発される。仕事の絶対量と役割分担を見直すという発想をしなくては、問題は解決されない」
 (寺本康弘)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201802/CK2018021202000166.html

高校の指導要領 社会に通用する力を

 2018年2月15日の朝刊の社説欄より、「高校の指導要領 社会に通用する力を」の引用!
 グローバル化や高度情報化、少子高齢化の流れが速い。不確実な時代を生きる力をどう身に付けるか。高校の新しい学習指導要領案が公表された。大学受験のための教育から抜け出すことが肝要だ。
 文部科学省は昨年度の小中学校に続き、高校の現行指導要領をほぼ十年ぶりに改定し、二〇二二年度から順次導入する。高校と大学の教育を円滑につなぐための「高大接続改革」の一環でもある。
 これまで高校と大学の教育は、入学試験という障壁で隔絶されてきたといえる。大学は知識偏重の入試を課し、高校はその傾向と対策に振り回されがちだ。
 かつて全国各地の高校で進学実績を優先させるあまり、大学入試とは無関係として必修の世界史や情報科などを履修させていなかったことが発覚した。生徒の卒業認定を巡って政治問題化し、校長の自殺が相次いだ。
 高校が単なる受験勉強の場になっている実態が露呈した事件だった。指導要領を改定しても、教育に対する現場の心構えが変わらなくては再び空回りしかねない。
 選挙権年齢にとどまらず、成人年齢そのものを世界標準の十八歳に引き下げる動きがある。高校は予備校ではない。社会の担い手を育て上げるという本来の役割と責任を自覚し直さねばならない。
 大学もその成果を的確に把握する入試の在り方を工夫し、多様な個性を伸ばす環境を整えてほしい。高校までの教育の流れを断ち切るような入試は自重すべきだ。
 高校の新指導要領の案は、小中学校と同様に主体的に学びに向かう態度を養うことを重視する。
 そのために大切なのは、生徒の「なぜ学ぶのか」という素朴な疑問に対して気づきや示唆を与える授業だろう。よく耳にする大学受験に必要だからという皮相的な動機付けでは血肉になるまい。
 その意味では、日常の暮らしや現実の社会が抱える諸課題と、学ぶべき事柄との関わり合いに着目して多面的、多角的に考えさせる場面が多いのは望ましい。
 もっとも、生徒に主体性を持たせるべく、講義から討論や発表を取り入れた授業への転換が求められる。教師の負担は大きい。手厚い支援が欠かせない。
 最も気がかりなのは、小中学校から連続して道徳教育の強化を促す点だ。道徳は科学ではない。自国に対する愛情の大切さを説きつつ、領土や歴史を学ばせては危うい。社会を担うには、批判精神をよく培うことこそが大事だ。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018021502000171.html

週のはじめに考える 「残業社会」を変えたい

 2017年4月16日の朝刊の社説欄より、「週のはじめに考える 「残業社会」を変えたい」の引用。
 結局、抜け穴があるんだよね!
 残業や休日出勤・・・それでも無休で働いている人って多いと思うよ。
 「労働憲法」といわれる労働基準法が今月、公布から七十年を迎えました。同法の生い立ちを振り返り日本の長時間労働問題を考えてみたいと思います。
 「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」
 一九四七年四月に公布された労働基準法(労基法)第一条は、こううたっています。当時の最低労働条件の国際水準を取り入れ、男女の別なく全産業を対象とし労働時間を一日八時間、一週四十八時間と定めた画期的な法律でした。
◆民主主義の根底培う
 第二次世界大戦が終わると、米軍の占領下で一連の民主化が始まります。四六年には新憲法が公布され、第二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定します。この条文が、冒頭に引用した労基法一条に反映されます。加えて憲法二七条は、賃金、就業時間、休息などの労働条件の基準は法律で定めるとしました。
 公布から一年後に出版された「労働基準法解説」で、当時の労働省労働基準局課長の寺本廣作氏は次のように記しています。
 <民主主義を支えるものは究極において国民一人一人の教養である。国民の大多数を占める労働者に余暇を保障し、必要な物質生活の基礎を保障することは、その教養を高めるための前提要件である。労働基準法は労働者に最低限度の文化生活を営むために必要な労働条件を保障することによってこうした要件を充たし、我が国における民主主義の根底を培わんとするところにその政治的な制定理由を持つ>
 しかし、労基法には大きな欠陥がありました。三六条です。労働組合またはそれにかわる過半数代表と時間外労働に関する労使協定を結べば、無制限に長時間労働をさせることが可能になるというものでした。
◆生まれながらザル法
 森岡孝二関西大名誉教授は「労基法は生まれながらにしてザル法だった」と指摘します。そして、欧州諸国にはないこの規定が、今日、世界で最悪レベルにある日本の長時間労働の根源にあります。
 森岡氏が総務省の「社会生活基本調査」と経済協力開発機構(OECD)の統計から分析したところ、日本の男性正社員の総労働時間は年二千七百六十時間(二〇一一年)で、ドイツ、フランスより実に六百時間超多いのです。六百時間といえば、一日八時間労働として七十五日分、多く働いている計算です。
 日本は本当に先進国と言えるのでしょうか。しかも、この水準は一九五〇年代半ばから変わっていないそうです。
 労基法は八七年、大きな転換点を迎えます。一週四十時間制の導入です。政府は「働き方を他の先進国並みに変える歴史的なもの」としていましたがこれも労働時間の短縮に結び付きません。平日の残業が増えただけだったのです。
 それどころか同時に、労使で定めたみなし労働時間を超えても残業代が払われない「裁量労働制」や「事業場外みなし労働制」が法律上、導入されます。両制度は実際に何時間働いたかを問わないためサービス残業を生みやすく、過重労働を招くと批判されています。
 八〇年代後半から過労死が社会問題化してきます。全国各地に「過労死を考える家族の会」が結成され、海外のメディアでも日本語がそのまま「karoshi」として紹介されるようになりました。過労死・過労自殺者数は近年、年間二百人前後で推移しています。国際社会においても、恥ずかしい限りです。
 「日本の働き方を変える歴史的な一歩である」
 安倍晋三首相は先月末、働き方改革実行計画を取りまとめた会議の席上、こう胸をはりました。
 これまで“青天井”だった残業時間に、罰則付きの上限を設け法定化する。長時間労働の是正に向け大きく前進すると期待していましたが、政労使の合意には失望しました。
 残業の上限を年間七百二十時間(休日労働を含まず)の枠内で、「一カ月百時間未満」「二~六カ月平均八十時間以内」としたのです。これはまさに、過労死の労災認定基準です。過労死するようなレベルの長時間労働に、政府がお墨付きを与えるようなものです。
◆生活・仕事の両立疑問
 法定の労働時間が週三十五時間のフランスでは、残業の上限を年間二百二十時間と定めています。日本の三分の一以下なのです。
 政府は、当初「欧州並み」に労働時間を抑え、育児や介護など家庭生活と仕事の両立を容易にするという目標を掲げていました。
 速やかに残業の上限引き下げに向けた次の議論を始めることを、政府に求めます。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017041602000156.html

教育勅語 復権など許されない

 2017年4月5日の朝刊の社説欄より、「教育勅語 復権など許されない」の引用。
 戦前回帰の動きとすれば、封じ込めねばならない。安倍政権は、教育勅語を道徳教育の教材として認める姿勢を鮮明にした。個人より国家を優先させる思想である。復権を許せば、末路は危うい。
 教育勅語について、政府は「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定しない」との答弁書を閣議決定した。菅義偉官房長官はさらに踏み込み、道徳教材としての使用も容認する考えを記者会見で示した。
 政府のこうした言動を深く憂慮する。
 国会議員の質問主意書への答弁書とはいえ、政府が個別の教材の位置づけを明示することは、教育に対する介入に等しい。ましてや、国民を戦争へ駆り立てた教育勅語の取り扱いである。肯定的な姿勢は国内外の疑念を招く。
 教育勅語は一八九〇年、明治天皇が国民に守るべき徳目を説いた言葉として発布された。自由民権運動や欧化主義と儒教主義や皇国主義との対立を収め、教育の基本理念を定める狙いがあった。
 学校での朗読が強制され、神聖化が進んだ。天皇制の精神的支柱の役割を果たし、昭和期の軍国主義教育と結びついた歴史がある。
 親孝行や夫婦の和、博愛といった徳目は一見、現代にも通じるものがある。だからだろう、安倍政権を支持する保守層には、教育勅語を評価する向きが少なくない。
 しかし、その徳目はすべて「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以(もつ)て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」に帰結する。国家が非常事態に陥った時には天皇のために身命を賭すことが、不変の真理であると国民に植え付けたわけだ。
 だからこそ、教育勅語は戦後の一九四八年に衆院で排除の、参院で失効の決議がされた。閣議決定はこれをたがえるものである。
 もちろん、かつての天皇制や教育の仕組みを学ぶ歴史教育のための資料としては有効だろう。
 それでも、とりわけ道徳教育では持ち出すべきではない。国民主権や基本的人権の尊重といった現行憲法の理念に根差してはいないからだ。「憲法や教育基本法に反しない形」で、教材として使うのはおよそ不可能である。
 小中学校の道徳の時間は、特別の教科に格上げされるが、個々の徳目に惑わされてはならない。それこそが教育勅語の教訓だろう。
 自民党は復古的な憲法改正草案を掲げる。戦前の価値観を志向するような閣僚ぞろいの安倍政権が唱える教育観には警戒したい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017040502000140.html
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