FC2ブログ

傍観者効果

 テレビで「傍観者効果」というのをやっていた。  事件が起こるのは「傍観者効果」が大きいのかもしれない。(「いじめ」も傍観者効果?)  傍観者効果(ぼうかんしゃこうか,英:bystander effect)とは、社会心理学の用語であり、集団心理の一つ。 ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない心理である。傍観者が多いほど、その効果は高い。 これは、以下の3つの考えによって起こる。 多元的無知 - 他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える 責任分散 - 他者と同調することで責任や非難が分散されると考える 評価懸念 - 行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%8D%E8%A6%B3%E8%80%85%E5%8A%B9%E6%9E%9C
スポンサーサイト

密着・児童養護施設 虐待の傷は

 今日の夕方のNHK「ゆうどきネット」で「密着・児童養護施設 虐待の傷は」というのが放映されたようだ。  録画しておけばよかった。 https://www.nhk.or.jp/shutoken/program/b-det0004.html http://www.nhk.or.jp/shutoken/yuudoki/

叱るのが下手

 『月刊JTU』2010年8月号より、なだいなだ先生の「叱るのが下手」の引用。  う~ん、反省・・・自分は、叱るのも褒めるのも苦手なんだろうな・・・。  フランスのナショナルチームが、メキシコに破れ、ワールドカップ1次リーグ敗退が決まった時、たまたまフランにいた。新聞もテレビも、敗戦の原因探しで大騒ぎになった。だれが悪い。あいつがいけない。  こういう時、まず相手をたたえるのがスポーツ精神というものだが、それをすっかり忘れたようだった。サッカーが大きなビジネスになり、1次リーグ敗退では、スポンサーは元が取れない。そこで選手叩きをして、選手が受け取るべき手当てを返上させるための陰謀だと、穿った見方をするものもいた。  ぼくはフランスのジャーナリズムの幼稚さをそこに見た。次の日に日本がデンマークに勝って、決勝リーグ進出を決めた時、デンマークのジャーナリズムが日本チームを褒めちぎったのと対照的だった。  スポーツの試合は相手のあること、相手がいいプレーをすれば相手が勝つ。たまたまその日だけ特別にいいプレーをしただけであっても、相手を褒めて間違いはない。相手のプレーを褒めないで、敗戦の原因だけを探すのは、失礼な話だ。  だが、日本でもジャイアンツのファンは往々にして、同じ傾向が見られる。幼稚なファンが多いということだろう。まず相手を褒めてから、だがあそこで踏ん張っていたら、もしかしたら、こちらが勝っていたかもしれない、と敗因を指摘すれば、選手たちも、後々のプレーに活かせるというものだ。  昔から、日本には叱り上手は褒め上手という伝統があった。日本だけではない。これは世界的な真理かもしれない。普通の職場でもよく見られたし、家庭でもよく見られた。叱り上手の母親は、まず子どもを褒めてから叱った。こんなにいいところがあるお前に、これがやっていけないことだということは、分かっているだろう、と順序がよかったのだ。子どもは叱られても反発しなかった。だが、最近、何でもかんでも、ガミガミ叱るものが増えた。家庭でも、学校でも、職場でも。  人間はかならず間違いをする。失敗をする。そしてそこから学んで賢くなる。だから、間違った時、失敗した時に叱るのは重要だ。だから、叱るのも1つの技術だと考えればいい。  ところが失敗を見ると、感情的に激してしまう人がいる。しかも自分は正しいと思いこむ。フランスのジャーナリズムは、そうした正論を吐く人ばかりに見えた。横から見るとよく見える。

志ある先達は教育技術を向上させるシステムや方法論を意識していた

 『教室ツーウェイ』(明治図書)9月号は読みごたえがあった。  今日は、板倉弘幸先生の「志ある先達は教育技術を向上させるシステムや方法論を意識していた」の引用。詳しくは本誌をお読みください。 <色:#0000ff> 教育技術の上達論は向山洋一先生が提唱した法則化運動から始まった。教師の世界にはじめて上達のステップを問題提起した本が、向山氏の『上達論―黒帯六条件』(明治図書)である。その著書で、向山氏が示した黒帯六条件とは次の通りである。 1 すぐれた技術・方法を100学べ 2 すぐれた授業の追試を100せよ 3 研究授業を100回せよ 4 研究会に100回出席せよ 5 法則化論文を100本書け 6 身銭を切って学べ  このように教師の力量アップのために明確な目安を示した主張はそれまでになかった。向山氏の提案以後は、亜流本も出ているかもしれない。しかし、それらの本が現在の教育界に大きな影響をもっているかどうかは、まだ耳にしていない。  そこで向山氏の主張以前には、このような上達論がなかったのか調べてみた。本稿では3冊の文献を紹介する。 A『わか国の義務教育における教育方法の歴史的研究』(風間書房)伊瀬仙太郎編 B『教師の仕事と技術』(国土社)斎藤喜博 C『牧口常三郎全集第六巻』(第三文明社) 1 教育方法史に上達論はなし  Aは約900項の研究物。東京学芸大学の教授陣の執筆である。「教育方法の歴史」ということで、上達論に関する記述がないかを期待したが、全くの外れであった。  第1編は時代的背景、第2編に教育原理の紹介がある。ここでかつで日本に普及された教育方法が紹介されている。例えばペスタロッチ、ヘルバルト、八大教育主張などの紹介。その他木下竹次、石山脩平らの新学習方法論、さらにはアメリカのソーンダイクの教育測定学の提唱などが主だった内容である。いわゆる日本教育方法史的な内容であったが、あらためて学んだこともあった。(日本の教育は教授法から学習法にシフトしていったこと、知識技能の習得に必要な反復・練習の現在のドリル学習はソーンダイクの学習理論から始まっていること)  次の第3編からは国語、算数と各教科の指導法の変遷(明治~戦後)が示された。例えば国語なら、垣内松三、芦田恵之助の教え方、算数では明治期の算術教育から始まり、大正期の数学改良運動、戦後の単元学習など、教科教育史のような内容であった。  全編にわたり、上達論に関する記述は皆無であった。 2 斎藤喜博の仕事  斎藤喜博のBの本は指導技術論集といえる本である。本書の中で、氏は教師の力量を身につける基礎訓練として、次の諸点を挙げている。 (板倉まとめ) ①自分の実践から学ぶ ②他人の実績を繰り返し体験する ③先人から直接、教えてもらう ④難しい子供から学ぶ ⑤絶えず学ぶ、共に学ぶ姿勢を持つ ⑥事実を作り出す仕事をする  ここには追試や子供の事実から学ぶ方法など、向山氏の教師修行と共通するものが多数ある。しかしこれはあくまでも力量を身に付けるための方法の紹介であり、ステップを踏んだ上達論にはなっていない。  内容を一部紹介する。  ①はまず自分でやってみることが基本で失敗したらそれを分析する、また子供から学ぶ、教材から学ぶ、教育理論にあたって学ぶ、これを何十年と続けることだと氏は言う。  ②は他人の経験を忠実に繰り返してみる、ということで追試のことである。  ③は介入授業であり、また技量検定にあたる内容である。  このように斎藤氏の主張は具体的な目安こそないが、向山氏の主張(技量アップのシステム)と重なる点が実に多い。 3 勤務先の初代校長の教育学  斎藤喜博からさらに大正時代にまで遡ってみた。当時の公立小学校の一校長が教育技術の上達に関して模索していた跡が伺える。  如何にして教育の技術は生まれ且つ上達するか。教える相手の心の欲求をよくよく見つめてこれに順応し、その要求するところに投じて行きさえすれば、自ら教育技術が生まれてくるであろう。『牧口常三郎全集第6巻』(第三文明社)  私が現在勤務している台東区大正小学校初代校長の文章である。牧口校長は、大正7年の大正小学校校長時代、沢柳政太郎氏(文部次官、帝国教育会会長、成城学園創設者)から地理教授の研究発表を委嘱され、自ら実地授業をして講演に臨んだ。後に港区白金小学校長として10年間在職し、名門校に育て上げた。  牧口氏は自らの教育実践を積み重ねながら、独自の教育学を打ち立てた。その中の一章に「教育技術鑑賞論」があり、上述の文章はその中の一文である。  牧口氏は次のように法則化運動とは同様の「教育技術の共有化、追試」などの考え方をもっていたようである。 〈教育の技術も言語文章に発表され、これが理解されることにより、誰でもこのとおり復元できるものとなるならば、容易に他人に伝え、後世に遺し得ることになるだろう〉  そのほか、教育の技術の段階を目的や手段の有無によって8から16階級に区分できること、また一定の方針を立てて熱心に熟練を積めば数年及至数十年で必ず力量が向上すると述べている。  残念なことに、何に取り組めばよいのかの具体的な目安を示していなかった。  力量形成と向上の具体的な修行方法は、それから70年後の向山氏の上達論を待たねばならなかった。

消えた老人問題と児童虐待問題

 昨日の朝刊に「児童虐待安否確認48時間以内に目で 厚労省通知」という記事が載っていた。  大阪市の2幼児放置死事件など相次ぐ児童虐待への対策を強化するため、厚生労働省は18日、2007年の指針改定に従い虐待の疑いがあるとの通告を受けてから48時間以内に、子どもの安否を児童相談所の職員が実際に目で見て確実に把握するように全国の自治体に通知した。  大阪市のマンションで7月、幼児2人の遺体が見つかった事件では、住民から3回通告を受け、児童相談所の職員が5回訪問したにもかかわらず、居住者の氏名や室内の状況を確認できず、子どもたちの姿も見ずに戻っていたことが判明。厚労省はルールを徹底するよう求めた。指針では、虐待が疑われる家庭についての調査項目として、子どもの居住環境や学校、家庭環境のほか、成育歴や過去の相談歴を挙げている。  児童虐待が対処しきれていないもの、高齢の老人が生きているのか分からない問題も根は同じような気がする。  老人の場合、死亡届が出ていない、そして家庭訪問に行っても、会えないと生きていることになっていた。  児童虐待の場合(特にネグレクトの場合)、児相の職員が家庭訪問しても、すぐには会えないことが多いのではないだろうか。  だいたい職員の勤務時間は8時から5時だろう。これだと、児相の職員が48時間以内に目で確認するといっても、会えないことが多いでしょう。  夜中に会うとか、家の前で親が帰ってくるのを張り込みをしなければならない事例が多いと思う。児相職員の勤務時間はどうなるのだろう?深夜に家庭訪問しても翌日の8時から勤務なのかな?

受講態度が変わった-学生文化が消える

 『教室ツーウェイ」9月号より、明石要一先生の記事。今は、授業態度や出席で点数を稼ぐ学生が増えたのですね。学力ってどうなっちゃたんでしょう?  詳しくは本誌をお読みください。 <色:#0000ff>1 休講に文句が出る  ここ10年ぐらい前からである。休講の掲示を出すと苦情が出るし、補講はいつやるのですか、という問い合わせが増えている。  学生文化があった頃、「自然休講」という了解があった。開始30分たって教授が来なければ休講になる(する)、というのが暗黙の了解事項であった。だから、どんなに授業がうまくても25分ぐらい遅れてくる教授は人気がなかった。  それが、休講届けを出さないで突然休講にすると文句だけでなく、学務課に抗議のメールが入る。  自然休講と同時に、麻雀にいったり、部活の部室にたむろする姿は消えてしまっている。  同じように、出席を取らない教授に対して、どうして出席を取ってくれないのですか、という質問も出始めている。  どうも、高校生までは出席点や平常点が重視されてきたせいだろうか、それとも推薦入学とAO入試入学が半数を超えてきた入試制度のせいだろうか。  いずれにせよ、まじめで時間を守り、出席点を当然と思う学生が増えつつある。 2 私語が消えた  「教室の目は聞く人。   中、寝る人。   後ろ私語をして騒ぐ人」  教授たちの間でしばしば自嘲気味に語られた言葉である。例えば、平成元年の朝日新聞の「ひと」欄では「授業中の私語追放をすすめる学長」の話がある。  20年前では私語が流行りだしていた。確かに私の授業でも、「中」の人は水曜日発売の「少年マガジン」か「少年サンデー」を読む人、「後ろ」は私語をする人たちがいた。  それが、今では私語は消えてはいないが、数からいうと減少している。しかも、注意されると私語はやむようになっている。  きまじめで、小さくまとまっている学生が増えている。授業がつまらなく眠っていびきをがく学生は皆無になっている。 3 ノートがとれない  高校までの教育と大学教育の決定的な違いは、「ノートを写す」文化から「ノートをとる」文化への転化であった。  それが今の学生はノートがとれない。板書がきれいでノートを写しやすい教授が人気がある。ノートを写す時間を取ってくれる人は最高の評価を受ける。  ノートをとれないのは学生だけではない。若い新聞記者もメモがとれない。記者会見の場面を思い出して欲しい。記者達は机の上にテープレコーダーを置く。帰社してからテープを起こすのだろう。  何が大切で、何を捨てたらよいかの判断ができない。ノートを写せば安心する。きれいに写せば自己満足する。これで勉強したつもりになる。  もう一つ気になることはレポートを出させると、筆圧が弱くなっている。かすれた字が増えている。鉛筆をしっかり握り、強く字を書く訓練を受けていない。これでは小論文では不利益を被りかねない。

学級崩壊のクラスで授業をする3つの条件

 『教室ツーウェイ』9月号は興味深い記事がたくさん載っている。今日は戸村隆之先生の記事の引用。詳しくは本誌をお読みください。 <色:#0000ff>学級崩壊クラスには必ず特別支援を要する子がいる。その子に対応するスキルなしでは授業が成立しない。  学級崩壊クラスで授業を成立させるには以下のつの条件が必要である。 1 D表検定5項目の習得 2 授業を組み立てる力の習得 3 特別支援を要する子どもへの対応スキルの習得  二十代教師は、この3つのスキルを習得する教師修行を行う絶好の時期である。 1 TOSS授業技量検定D表項目  D表検定の5項目は以下の通りである。 ①授業の始まり(15秒)のつかみ ②子どもへの目線 ③あたたかな、表情、対応 ④明確な発問、指示 ⑤心地よいリズム  これらを意識する程度では駄目だ。これらの5項目を意識せずに、自然にできるようにならなければいけない。  授業を受けていると、この5項目を不自然に意識しているのを感じることがある。  子ども相手の授業でも同じである。子どもたちは、その不自然さを敏感に感じ取る。学級崩壊のクラスでは、その不自然さを感じ取られると、子どもから反発を受けることもある。逆効果となるのだ。  自然にできるようになるには、とにかく練習しかない。サークルでの模擬授業、授業技量検定を続けるしかない。  百回、二百回、数え切れないくらい練習したとき、この5項目を意識せずに行うことができるようになる。その分かれ目が、D表25級以上の実力である。 2 授業を組み立てる力  同じ素材を授業化しても、授業者によって全く違った授業になる。それは授業技量だけの問題ではない。授業を組み立てる力が作用してくる。  サークルで今年なくなった巨人の木村拓也選手の映像を題材に道徳授業をした先生がいた。私は同じ素材を使って、組み立てを全く変えた授業を作った。  どちらの授業も受けたサークル員が、「全く違う授業でした」と感想を述べていた。  同じ素材の授業でも、組み立てによって知的な授業になる。  この力は、優れた授業を追試し、ライブで授業を受け、何度も自分の授業を見てもらう以外に高める方法はない。 3 セロトニン5  最後に特別支援を要する子へのスキルである。学級崩壊のクラスには、必ず特別支援が必要な子がいる。多ければクラスの半分、三分の一がそのような子どもたちなのだ。  そのような子に対応するスキルの一つが平山諭氏が提唱されているセロトニン5である。 1見つめる 2ほほ笑む 3話しかける 4触る 5ほめる  授業の中で、このような対応が自然にできるようにならなければならない。  特別支援教育に対応するスキルがないと学級崩壊クラスでの授業は不可能である。

許すこととこだわること

 『教室ツーウェイ」9月号より、杉山裕之先生の記事。詳しくは本誌をお読みください。 <色:#0000ff>「許す」・・・子どもは間違えたり、失敗したりする存在なのだ、それを許せる、それを受け入れる大人でありたい。  向山氏は次のように書く。  人の子の師であるという、恐れとおののきを失った時、私たち教師の善意の行為は悪魔の行為に化身するのである。  私を含めて教師は、自分の教育的行為の熱心さを省みる謙虚さに欠けている。熱心さは免罪符にはならないのである。  教師なら、「その子を何としてでもよくしよう」と思うのは当たり前だ(それがないなら、教師としての存在価値がない)。  だからこそ、どのような「行為」「方法」でその「思い」を実現するか。それを問うべきだ。  教師の思い描いた通りに子どもが動かないと次のような行為に及ぶ先生がいる。 「何度注意したら分かるの。先生は、もう知らないからね」  次のように考えたらいいのになと今なら思える。 ①何度注意しても分からないのには、どんな原因があるのか。 ②注意する部分を褒める部分に変えることはできないのか。  「知らないからね」と突き放された子どもの自尊感情は当然低くなる。 「ぼくは、何をやってもどうせ駄目なんだ。先生からも見放されいる」  教室は全ての子どもの可能性を伸ばす場でなくてはならないはずであるのにだ。  本誌、5月号の熊田賢人氏(翔和学園)の論文「アスペルガーの子どもたちへの指導の原則 こだわり対決をしない」は大変、納得いく事実だと感じた。  熊田氏が、笑顔で望ましい行動だけを伝えても、B君は興奮を静めることができないという大変「難しい」子だったようだ。  覚えたてのスケッチアップが楽しくて仕方がない時には、約束した下校時間を過ぎた後に興奮してやりたいと訴えてきた時もあったそうだ。  熊田氏が「時間になったので帰ります。お父さんも待っているよ」と何度伝えても「スケッチアップやりたいよ~」と落ち着かないのである。  熊田氏の対応に対して、伊藤寛晃氏は、別の対応をした。 「どうしてもパソコンやりたいんだね。それだったら、10分間だけやってもいいよ。ただし、10分間の約束だよ」  この後、B君は約束を守り、落ち着き、保護者に出来上がったスケッチアップの話をしながら気分よく帰って行ったという。  困った行動を一度は受け入れる  伊藤氏の対応は「受け入れる」が、ルール(約束)も教えている。一旦受け入れられ、満足した子どもが逆にこちらの要求も受け入れられるのではないかと思えてならない。  特別支援学級の担任から、相談を受けた。  「A君(注意されるとパニックを起こす)が隣の子にちょっかいを出して、隣の子はがまんしているんです。それを注意すると、それだけでパニックになってしまいます」  私は、ひとまず、隣の子に先生が謝ることを提案した。まだ、A君の行動を正すことはできないが、少なくとも、隣の子に「ごめんね、許してね」ということは、先生がしておいたらいいのだと話した。

発達障がいの視知覚機能の問題に対応する

 『教室ツーウェイ」9月号より、谷和樹先生の記事。詳しくは、本誌をお読みください。  ADHDやPDD、LD等、発達障がいの子どもたちには「目の見え方」に問題があるケースが多い。専門家と連携し適切な対応をしていく必要がある。 1  教室には発達障がいの子どもたちが約1割いる。教師は、この子たちの力を伸ばし、持っている可能性を引き出すよう、努力しなければならない。  そのためには、新しい知識を学び続けることも必要だ。  ADHDやPDD、LD等、発達障がいの子どもたちには「目の見え方」に問題があることをご存知だろうか。例えば、次のような問題である。 ①両目をうまく使えていない。 ②両目は見えていても、片方の目しか使っていない。 ③両目の協調運動ができていない。 ④ピント合わせの機能に問題がある(視点を変えたときに、ピントが合うまで時間がかかる)。  発達障がいの子どもたちは、このような「視知覚認知の問題」を持っていることが多いのだ。  いまだに「百マス計算」を実践しているところがあるらしいが、あれは発達障がいの子どもたちにとっては極めて問題の大きい教材である。  算数の能力があったとしても、水平と垂直に目を動かす機能に問題がある子が多いのだから、大混乱に陥るのは当然だ。  よく考えてみると、学校の視力検査では「片目ずつ」のテストしかしない。しかも「近視」しか検査しない。この検査では、「両目の協調」については全くわからない。 2  このような目の見え方の問題が、学校で発見されないまま放置されている。  そのため、集中力の低下、身体協調運動が苦手、リズム感がない、空間認知能力が低い、算数が苦手、勉強が嫌い、等のことが発生しているケースがある。  目の機能に問題があって近くを見ることができないために、注意力に問題があるとして、ADHDと誤診された子どももいる。  小学校の授業の75%は「見て学ぶ」ものである。スポーツや野外活動をする上でも「見ること」は不可欠である。  子どもたちを見て、次のような賞状が1つでもあれば、視知覚の専門家に相談をする必要がある。他にもあるが、教室では比較的発見しやすいものを挙げた。  適切な対応と適切なトレーニングをすれば、改善し、落ち着いて学習できるようになる可能性が大ききからだ。 ①目を細めたり、こすったりする。 ②動作がぎこちなく、よくものにぶつかる。 ③字がうまく書けない。字の形を覚えにくい。書き損ねたり、文字の間隔がばらばらだったりする。 ④文字・数字を裏返して書く。小学校2年生以降でも鏡文字を書く。自分で間違いに気づいて直すことができない。 ⑤黒板を写すことがうまくできない。 ⑥文字の抜けた単語を書いたり、単語の抜けた文章を書いたりする。 ⑦算数の概念がうまく理解できない。(時間、お金、グラフなど)

不勉強、そして組合

 『教室ツーウェイ」9月号より、長野藤夫先生の記事。詳しくは本誌をお読みください。  そもそも、「ひどい授業」しかできない人を「ベテラン」と呼べるかである。『大辞泉』によれば、「ベテラン」とは「長年の経験を重ね、その道に熟達した人」のことである。が、熟達していないから、授業がひどいわけである。  とするならば、ここでの「ベテラン」というのは「長年の経験を重ね」ているだけの人と理解していいだろう。そんな「ベテラン」教師ならば、何人も思い浮かぶ。数え上げれば、足の指を使っても足りない。どの方を取り上げようかと迷うほどだ。  A氏は、情けないほどひどい授業をする方であった。私の学級の生徒たちは、「先生。A先生の授業、ぜんぜんわからなくて、どうしよう」と口々に訴えた。  定期テストでも外部テストでも記号問題以外はできたことのないB男のことを、A氏は授業が終わるたびにぼやいていた。「B男には困ったものだ。こんな問題もできないのだから」そして、「もうダメだね。どうにもならんね」とさじを投げた。  私はそのたびに溜息をついたものだ。「それを少しでもできるようにするのが、あたなの仕事ではないのか」と。  私は、B男に対してその教科の個別指導を重ねた。その結果、3点、4点の成績を30点、40点にまで向上させ、高校にも合格を果たしたのだった。A氏は「信じられない」という顔で、B男の向上的変容を見ているだけだった。  A氏は、行きつけのパチンコ店を「オレの店」と呼んでいた。職員室での話題と言えば、ほとんどがパチンコで勝っただの負けただの。自分の授業を改善するために何かをしようと考えることもない。校長が授業を見に行くと、「勝手に見るな!」と校長室に怒鳴り込んだ。それでひどい授業から抜け出せるはずがない。  C氏は、反社会的な某職員団体で、この地方のトップの地位にあった。私の学級の保護者会の度に、苦情が殺到していた。  「長野先生、C先生の授業、何とかなりませんか。娘が言うんです。授業の時間はずっと黒板に向かって書きならが一人でしゃべってるんだって。1時間の間に3回しか前を向かないんだって言うんですよ。15分に1回だって。そんなこと毎時間数えている娘も娘ですけど・・・、どうにかならないでしょうか。授業がまったくわからないって言うものですから。これでは入試が心配で心配で」  「C先生は、うちの主人の中学時代の担任なんです。ですからいいにくいんですけど、昔からそうだったみたいなんですよね。何とかしていただけませんか」  職員会議で授業時間正常化が取り上げられたとき、私が「あと5分あれば漢字指導が充実させられる」と主張すると、C氏はいつも真っ向から反対した。  「漢字なんてどうでもいいんだ。子供は行事で育つんだ。50分授業は反対だ」  結論。  「勉強をしない教師」  「組合活動をしている教師」  この種の教師は、例外なく、ひどい授業しかできない教師である。

続きを読む

授業の本質が理解できない教師

 『教室ツーウェイ』9月号より、根本正雄先生の記事。詳しくは本誌をお読みください。 <色:#0000ff> 何人かのヴェテラン教師の授業を参観した。何度見ても授業は変わらなかった。彼らには、授業の本質が理解できないという共通点が見られた。 1 拒否的な振る舞いが多い  第一には子どもを受け入れるソフトな態度と考え方がなかった。声が高く、聞いているとイライラしてくる。子どもの反応に対して、柔軟性がなかった。いつも拒否的であり、声、態度、言葉がいつも冷たく、子どもの発言を受け入れずに、責めることが多かった。  子どもの表情はいつも暗かった。何かあれば、身構え攻撃的な振る舞いが見られた。  優れた教師は、言葉も態度もソフトであり、受容的である。どんな発言でも受け入れ、子どもが安心して授業に参加できる。 2 指示・説明が長く、一方的である  第二には、授業の中での指示・説明が長く、一方的であった。「○○をしなさい」「○○を書きなさい」と指示し、なぜ行うのかの趣旨説明が欠けていた。そのために子どもは活動意欲がわかず、積極的に学習に参加しなかった。  発言する子どもは一部の子どもに限られ、ほとんどの子どもは授業に参加しなかった。  説明しても子どもの反応が少ない。すると教師は説明が足らないと考え、さらに説明を多くする。説明すればするほど、子どもは混乱していく。何をどのようにすればよいのかが不明になる。  優れた教師は、指示・説明が短く、子どもの意欲を引き出しながら進めていく。子どもの表情、発言、態度を見ながら指示や説明を行う。子どもに合わせて授業を行っているのである。そのために、子どもは教師の指示・説明が理解できる。授業も楽しく、学級の雰囲気が明るく、温かい。 3 教材の組み立てが悪い  最も悪いのは、教材の組み立てが悪いことである。授業の導入で「どうしてだろう」「なぜだろう」という知的な疑問を持たせる教材の工夫が少ない。  子どもの興味・関心を惹くような発問が見られない。あたり前のことを発問し、一問一答の展開になっている。  子どもの思考が揺さぶられず、「分かった」「出来るようになった」という感動がないのである。  子どもの思考が逆転する発問・指示がなく、内容が深まらない。子どもが意欲を持って、課題を追求していく組み立てになっていないのである。  優れた教師は、子どもが気持ちよく理解できる組み立てにしている。子どもが疑問を持ち、発言し、子ども同士のかかわりの中から、課題を発見し真実を追求していく組み立てにしている。  子どもの顔は明るく、輝いている。

新学力観の呪縛から未だ解放されず

 『教室ツーウェイ』9月号より、槇田健先生の論文。詳しくは本誌をお読みください。 <色:#0000ff>授業における教師の行為を指導ではなく支援だと思い込んでいる。勉強が嫌いなだけである。  一番の元凶は、かつて一斉を風びした新しい学力観である。  子どもの主体性を大切にする。まず子どもありきで、教師が前面に出て指導してはいけない。教師は裏方で子どものやる気を引き出し支援する存在である。  今でもこの考えに深く縛られているヴェテラン教師は多い。一番困るのは、「教えてはいけない」と信じていることである。  ヴェテラン教師は言う。  「子どもはもともとすばらしい能力を持っている。教師が教えたらその能力が伸びなくなる。子どもの能力を信じて授業をするべきである」  更に言う。  「考える力こそが生きる力になる。教師が教えると考える力が育たない」  更に、更に言う。  「学力だけが大切なのではない。人間的なぬくもりや思いやり、優しさを育てる教育が大切である。学力中心主義には疑問を感じる」  そのとおりである。理念はすばらしい。  問題は事実である。目の前の事実である。漢字を覚えていない子、九九が言えない子、音読ができない子、ノートが取れない子、忘れ物が多い子、跳び箱が跳べない子などをどうするか、聞いてみた。  「みんな能力は違う。できなくても生活はできる。そのうちできるようになる。教育の効果は、すぐに出るものではない。10年、20年先に出るものだ。  できるようにさせる技術があるのだから、その技術を使い、子どもたちにできる喜びを与えるべきではないか、と問うた。  「技術主義はすきではない。できるよりももっと大切なものがある」  よほど子どもの能力を信じているのだろうと思いきや次のようにも言う。  「学習の邪魔をする子が最近多くなってきた。家庭のしつけができていなくて困る」  自分の技量の低さゆえの現象だと気づかない。そもそも、授業技量そのものの存在が気に食わないらしい。  学級が荒れているのである。ヴェテラン教師は言う。  「私1人では対応できないから支援員を付けてほしい。邪魔をする子を学級から取り出し、個別に教えてほしい。その役は、管理職がやるべきだ」  授業技量は極端に低いのだが、専門教科の知識だけは、誰にも負けていない。  心情を読むためには、発問が大切だとか、今日の授業は、子どものユニークな発想が出てすばらしかった、などと言うので、手が付けられない。  私がその学級で授業をして、子どもたちから喜ばれると次のように言う。  「珍しいから活発になる。校長の権威での授業、子どもの本当の姿ではない」  自分の殻に閉じこもり、脱皮することができない教師。新しい情報を学び取り入れることができない教師。詰まる所、勉強が嫌いなだけなのである。  学級崩壊は自業自得なのだが、子どもたちのためにヴェテラン教師への有効な指導法を考え続けていく。

指導技術上達の法則

 『教室ツーウェイ」(明治図書)9月号の最初は、向山洋一先生の「TOSS教師に日本一が多いのは、上達論を理解しているからである」。  詳しくは本誌をお読みください。  30年も昔、いわゆる名人芸は「かくし財産」であった。附属小などでは「かくし財産」による上手な授業が行われていた。2つ3つのかくし財産があれば、授業の名人といわれていた。  「かくし財産」を「共有財産」にしようと主張したのが、法則化運動である。  手はじめに「跳び箱は誰でも跳ばせられる」ことを、私が示した。ほとんどの人は10ページぐらいの論文を読んで、すぐにできるようになった。それから、次々と「かくし財産」を「共有財産」にしていった。  法則化シリーズは、爆発的にヒットした。  すぐに役立つ方法が、次々に紹介された。  ここで、法則化の本を読んだ人は、3つに分かれた。  第一は、役立つ技術を次々に追い求めた人である。そのことに満足した。いわゆる「いいとこ取り」である。  しかし、「いいとこ取り」では限界がある。小学生レベルで終わってしまうのだ。  第二は「役立つ技術」は「使いこなす技術」を伴ってこそ、本当の力になると分かった人である。  料理の食材が良ければ、おいしい料理はできる。しかし、それを使いこなす「技能」があれば、更においしくできると思った人である。  その人たちは、TOSSサークルを結成していった。「技術」を使いこなす「技能」を学ぶ場を作っていったのである。  第三は、第二の人たちの中から生まれた。新しい問題、新しいテーマに自分から挑戦していく人々である。  この第三のタイプの人達こそが、レベルの高い授業力を身につけ、新しい教育テーマに対応していった。従って、ほとんどの人が、本を出版することになった。その数軽く千名を超えている。  授業の技量が上達するには、次のことが必要になる。  第一に、子どもに対する責任感である。責任感があれば自分の力の不足が分かる。  第二は、あこがれの対象である。あのような授業がしたい。あのような教師になりたいというあこがれがあれば進むべき方向を間違うことはない。  第三は、情熱である。努力することを何とも思わないような前進する力である。努力を続ければ、必ず上達する。  上達を保障するには、「指導内容」と「システム」が必要だ。ピアノでも、サッカーでも、踊りでも、落語でも、武道でも、すべて、それを持っている。  教師には、それがなかった。だから、我流のデタラメが全国にまんえんしている。「上達システム」があれば「評価」が存在する。「評価」は安定していなければならない。バラバラでは、話にならない。  TOSS技量検定では、およそ40のレベルに分けられる。  有段者は、初段から8段である。  上級者は1級から9級のシングル。  中級者は10級から19級。  初級者が20級から29級。  初心者が30級から35級である。  日本の教師の8割は、30級前後だ。  上達するには「すぐれた授業」をまねする所から始まる。「まねする」ことが、初心者、初級者にはできない。本人は、まねをしているつもりが、全くまねになっていない。  どの分野でも、トッププロはまねが上手だ。まねをしているうちに、共通する「技能」が身についてくる。  「身についた技能」は「新しいことに対応できる」までになる。これが「型」だ。型は、プロの必須条件だ。それを身につけていないのが「型無し」(かたなし)なのである。  TOSSの技量検定を受けると、初心者、初級者は「5分の模擬授業」を求められる。時間はキッチリだ。1秒でものびると失格となる。1秒の延長も許されないテストだ。  みんな、何回も練習する。50回など、ザラである。100回練習したも、めずらしくない。それだけ、練習しても「サークル」のみんなの前でやると、足がふるえ、頭がまっ白になる。メチャクチャになるのだ。人前でやることを、何回もやって、TOSS授業検定を受ける。初心者だと50人ぐらいの教師の前でやる。心臓がとびだすぐらいドキドキする。これだけやって、やっと32級ぐらいだ。28級ともなれば、最初の15秒で参観者をわしづかみにする。

子どもの行動には必ず理由がある

 『教室ツーウェイ』(明治図書)2010年9月号には、興味深い内容の記事が多かった。  まずは、吉永順一先生の「子どもの行動には必ず理由がある ~児童養護施設を訪問して~」。共感できる内容だった。詳しくは本誌をお読みください。  「受容するのにかなりの時間がかかりました」  自動養護施設のM理事長さんは自分の来し方を搾り出すように語ってくれた。  三十年ぶりの再会だった。Mさんは元教師。大変に有能な教師だった。周囲の評判も高く、惜しまれて教師をやめた人だった。髪の毛は白くなり、顔の皺が人生を物語っていた。  Mさんは実家の福祉法人を継いだわけだが、学校の仕事との違いに戸惑ったようだ。  学校では問題があっても、熱心に指導すれば、子どもは反省し、態度を改め、向上心をもってものごとに取り組んでくれた。少々時間がかかることはあっても、子どもの心をつかんだという手応えがあった。  施設の子は違った。  指導しても指導しても非行を繰り返す。眉毛を剃った女子中学生が、ひと月の間、学校正門で奉仕活動を行うと言ってきた。自分も一緒に行動を共にした。約束のひと月が終わり、頑張りを称えて握手をした。充実感があった。これで変わると期待した。しかしその翌日、またその子は眉毛を剃ってきた。その繰り返しだった。  ある子の場合は、寂しい思いをしていると思い、愛情を注げばそそぐほど、逆に問題が噴出する。  子どもの行動の理由がわからず落ち込んだ。教師時代は力のある教師だと自負していた。  ところが施設では全く通用しない。はじめての経験だった。  以前と違い、施設にくる子どもの6割は親に虐待された経験がある。  児童相談所に通告がくると、緊急の場合は、一時保護をするようになっている。その間に、状況を把握し、家庭に帰せないひどい子どもたちが施設にはくる。  虐待を受けると、育ちに大きな欠落が出る。発達障害とよく似た育ちの障害がみられる。また発達障害の診断がついている子もいる。  虐待を受けた子は、人をいらだたせ、挑発し、怒りを引き出す行動をする。そんな子がいるということを受け入れることができなかった。  虐待を受けた子の対人関係はゼロからではなく、マイナスから出発だということが今ならわかる。当初は事情がつかめずに、うつ病になりそうだった。  そういう行動を受け入れることができるようになったのは、「そのとき、そのように行動する」のには必ず理由があるということがわかってきたからだ。  発達障害関係の本を何冊も読破する。専門医にアドバイスを仰ぐ、児童相談所に詳しい検査を依頼する。そんな努力を続けるうちに、子どもたちの困り感、生きづらさがわかってきた。  育てにくさ、指導のしにくさを優先していた段階では見えていなかったことが見えてきた。  障害があるからではなく、常に行動の文脈の中で生じること、つまり本人なりの理由があると考えられるようになった。  愛着の形成ができていない子も心から関わり続けると、子どもたちは応えてくれるようになる。万引きしたとき、型どおり「すみません、もうしません」と言っていた子が「もうこれ以上、あの先生を悲しませたくない。あの先生を泣かせたくない」と言うようになる。  Mさんは穏やかな顔でわが子のことのように話してくれた。

「1ミリずつしか変わらない」何年か先に1メートルの変化

 『月刊JTU』2010年7月号に、気になる記事が出ていた。  「なるほど!」と納得!そして、頑張らねばと自分で自分を励ます。  願うことが一夜で実現することもあれば、そうでないこともある。むしろ、ほとんどのことは、そう簡単に実現することはない。  教室に一人の先生、40人の生徒、先生の後ろに黒板。机にきちんと座り、右を向きなさいと言われれば一斉に右を向く子どもたち。それでうまくまわっていた時代もあったのかもしれない。  子どもは教室のなかでおとなしく我慢せよ、と、そんな理屈はもう通用しないのだ。  社会は1ミリずつしか変わらない。しかし、今の時点で1ミリを刻めば、それは何年か先には1メートルの変化となって表れるだろう。

出会い系以外の交流サイトも要注意

 『日経パソコン』2010年7月26日号より、野間俊彦先生の記事。  ネットについては、親も教師も政治家も行政も、しっかりと最新情報を知らないといけないですよね。でも、新しいことがどんどん出てくる・・・。 <色:#0000ff> ここ2年ぐらい、子どもの携帯電話をめぐる問題が様変わりしてきた。警察庁が毎年公表している「いわゆる出会い系サイトに関係した事件の検挙状況について」のデータを見ると、出会い系サイトが関係した2009年中の事件において、18歳未満の被害児童数は453人。前年の724人から約4割減っている。過去5年間のピークだった2006年の被害児童数1153人と比べて約6割減である。これは、いわゆる「出会い系サイト規正法」(2003年)や「青少年ネット規正法」(2009年)、携帯キャリアのフィルタリング規制や広報活動、そして学校の情報モラル指導などの成果だろう。  だが、これで万歳をしている場合ではない。子どもたちは出会い系サイトとは別の世界に移動しているのだ。 コミュニティサイトへ移動  「出会い系サイトが危ない」ということを知った子どもたちは、実はコミュニティサイトへと移っている。すなわち、利用者が情報を投稿し、閲覧者もコメントを投稿して交流できる機能を備えたサイトだ。出会い系サイトとの決定的な違いは、男女間の出会いを目的に揚げていない点。例えば、自己紹介を公開するプロフィールサイト、ゲームサイトの掲示板、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)などがある。  こうしたコミュニティサイトの実態はあまりつかめておらず、我々も歯がゆい思いをしていた。そんな折、文部科学省が2010年6月22日、「青少年が利用するコミュニティサイトに関する実態調査報告書」を公開した。結果を見るとまさに想像した通り。詳細に調査してあるので、子どものコミュニティサイト利用の実態がよく見えてくる。 http://www.mext.go.jp/a_menu/seisyounen/keitai/  調査は、青少年の利用者数が多いと思われる20サイトで、2009年12月から2010年3月に投稿された約10万件を対象に行われた。そのうち、「注意を要する投稿」「問題のある投稿」として検出されたのは6158件。注意を要する投稿とは、学校名やバイト先名など個人が特定できない個人情報や青少年以外への中傷、暴言、飲酒や喫煙に関する告白など。問題ある投稿とは、電話番号など直接連絡が取れる個人情報や出会いを誘引する書き込み、いじめ、自殺、自傷の告白などである。  投稿者の校種では、高校生の投稿が48%を占め、次いで中学生の投稿が38%、小学生2%と続いている。投稿が少ない小学生のうちにこそ、情報モラル指導が必要だということになる。  注意を要する投稿、問題のある投稿が多いサイトとしては、圧倒的にプロフィールサイトが多く、53%を占めている。次いでゲーム・SNSが25%、掲示板サイトが9%と続く。  プロフィールサイトが多い原因は、その仕組みにある。あらかじめ多くの質問が用意されており、それに答えるだけなので、友達に見せる感覚で、うっかり本名やメールアドレス、携帯電話番号などを書いてしまうのだ。  投稿の内容では、個人情報の掲載が60%と最も多い。これは投稿数が多いのがプロフィールサイトということに比例している。続いて飲酒や喫煙といった不適切行為の告白が21%、自傷7%、いじめ3%、自殺3%、出会い行為、違法・犯罪行為、誹謗中傷がそれぞれ2%ずつとなっている。 自主規制と教育を急ぐ  最近は、社会全体が子どもを取り巻く携帯電話やネットの問題に取り組んでいるが、まだ不十分だ。問題の認識と新たな取り組みが必要になるだろう。  問題の一つは、サイト管理の甘さにある。コミュニティサイトでも監視や管理がしっかりしているところはトラブルが少ない。法規制となるとさまざまな問題が絡んでくるので難しいが、サイトや業界の自主規制などで何とかならないものだろうか。ここが解決しない限り、管理の甘いサイトへ流れていくだけになってしまう。  二つ目の問題は教育だ。今回の調査で多くの大人がコミュニティサイトの利用実態を知ることになった。しかし、肝心の教員が知っているかどうかが重要だ。マスコミはぜひ今回の調査結果を大々的に報じ、教員にも危機感を与えてほしい。文部科学省も公表だけで終わらせず、全校種、全学校に調査結果を知らせて、情報モラル指導の授業モデルを通知すべきだろう。

ADHDは学級をひっくり返す、アスペルガーは学校をひっくり返す

 「ADHDは学級をひっくり返す、アスペルガーは学校をひっくり返す」という言葉がある。これは、発達障害の子に、適切な指導をしないといけないということなのだろう。  指導技術がものをいう。
プロフィール

ニャン太郎

Author:ニャン太郎
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
COUNTER
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR