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「バーンアウト」発症の契機

 『教職員共済だより』2014年vol.149より、「「バーンアウト」発症の契機」の引用。
 今回はバーンアウトに陥る契機についてお話ししたいと思います。バーンアウトに陥ることはさまざまな要因があると言われていますが、その多くは、第一に職場のストレッサー、第二に個人的要因、第三に仕事以外の要因(家族関係の問題など)が関係していると考えられています。この3つの要因を詳しく見ていきたいと思います。
学校現場における職場のストレッサー
 まず職場のストレッサーについてです。教職員に最も強い影響を及ぼすストレッサーは「多忙」であると言われています(※1)。残業時間の長さは全産業の中でもトップクラスと言われていますし、文科省の調査(※2)でも昭和40年代に比べると何倍にも増大していることが分かっています。また休憩時間の短さ、休日出勤などの時間外勤務の長さなども指摘されています。
 多忙の背景には、学校現場に限ったことではありませんが、たとえば問題が生じた場合、その問題の内容、経過や結果を報告するための書類作成の手間が増えたり、手続きが煩雑になったりする傾向があります。また、諸経費の納入や地域活動への参画、参加など、幅広い業務の煩雑感も強いストレッサーとなり得ます。学習指導をはじめ、児童生徒や保護者への対応、学級経営や課外活動指導など、学習指導に直接かかわらない業務もかなりの負担になっています。
 また、教育という仕事の「曖昧性」から生じる多忙感に、ストレスを感じる可能性も指摘されています。指導上の問題への対応はもちろん、児童生徒との関係、保護者対応など、どこまでが教育という仕事の範疇なのか、曖昧な部分はすべて学校にお任せする、という社会的風潮も拍車をかけていると思われます。さらに職場環境としての学校は、集団の規模が小さく、いったん上司や同僚との関係が悪化すると強いストレッサーとなると言われています。そのため学校内のみならず外部機関との連携も求められています。
年齢、性別によっても要因は異なる
 第二に、個人的要因についてです。まずは「年齢」が挙げられます。文科省の調査(※2)によれば年代が高くなるほどストレッサーを強く感じるという結果が得られています。年を重ねることにより経験は豊かになり、若い教職員に比べて、授業や書類作成、保護者対応などの業務には慣れてきますが、体力の低下やパソコン作業からくる目や肩の疲れなど、加齢による影響は大きいと言えます。中堅の世代においても、公務分掌上で任される仕事が増え、部活動などの課外活動の指導でも中心となり、仕事量は多くなると思われます。このように各年代において仕事の量や質、ストレスと感じる内容は変化しますが、それぞれの年代にあった対応策を見つけることができないと、バーンアウトの契機となり得るでしょう。
 また男女によってもストレスの感じ方は異なると言われています(※3)。女性においては、育児や家事との両立が求められることでの大変さがあり、また仕事にやりがいを感じにくいという結果が得られています。男性においては、任される仕事が量的、質的にも多いという結果があり、男女それぞれにおいてもバーンアウトへの契機は異なると言えるでしょう。
大切なことは、一人ですべて抱えないこと
 もう1つの個人的要因としては、「性格」が挙げられます。教職員の方は、まじめで責任感が強く、仕事に一所懸命に取り組む方がほとんどだと思います。このような姿勢があるからこそ、長時間の勤務や終わりの見えない対応に耐えられるのだと思います。しかし、周りに気を遣い、援助を求めず、自分一人で抱え込んでしまう状態が長く続くと、いろいろと突発的なことが起こったときに、どんなに仕事ができる方でも対応が遅れたり、大事なサインを見逃してしまったりすることがあるのではないでしょうか。人相手の仕事であり、多様な対応が求められるため、一人でもすべてを行うことは不可能と言えます。抱え込まず、周りに相談したり、一緒に対応したり、組織で取り組んでいかないと、気がついたときには、無理が重なりバーンアウト状態になっている危険があります。
 また、第三に掲げた仕事以外の要因が重なり、サポートがなかなか得られない状態が続くとストレス反応が生じ、やがてはバーンアウトに陥ってしまいます。
 周りがサポートしようとしても、本人がSOSを出さなければ周りもサポートすることができません。責任をもって、自分で頑張ることは大切ですが、一人の力では限界があることを認識することが大切です。自分が中心になって動きながらも周りと一緒になって組織で支えることが、真に児童生徒のためになるのではないでしょうか。上手に周りにサポートを求めることは、児童生徒を守ることにもなり、その児童生徒を支える自分をも守ることにつながります。
定期的に自分の状態をチェックすることが大切
 これらの職場のストレッサーと個人的な要因、仕事以外の要因、サポート体制などをチェックし、定期的に自分の陥っている状態を見ていくことが大事だと思います。
 仕事を任されると手を抜かずに、がんばる先生のところに、より多くの仕事が舞い込み、ますます仕事が増えてしまいます。自分のことは後回しにして、常に相手を優先的に考える・・・。頭の下がる大変すばらしい姿勢だと思いますが、相手を支えるためには、まずご自身が健康でいなければなりません。児童生徒のためにも、ご自身やその家族のためにも、前述したような要因がたまっていないかをチェックしましょう。そして、仕事のやり方を変えたり、周囲に相談するなど、ストレスをためないよう、ご自身でしっかりと意識し、取り組んでみることが大切です。
参考文献
(※1)鈴木邦治「教師の勤務構造とストレス-ストレッサーの認知的評価を中心に-」『日本教育経営学会紀要』35,69-82,(1993)
(※2)文科省「教職員のメンタルヘルス対策検討会議の最終まとめについて」(2013年3月29日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/088/houkoku/1332639.htm
(※3)宮下敏恵「中学校教師のバーンアウト傾向に関連する要因の検討」『学校メンタルヘルス』15(1),101-118,(2012)
宮下敏恵(上越教育大学学校教育研究科教授、博士(人間科学))
 1991年早稲田大学人間科学部人間健康科学科卒業、1994年早稲田大学大学院文学研究科修士課程心理学専攻修了、1998年早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程健康科学専攻修了、早稲田大学人間科学部助手、上越教育大学学校教育学部准教授を経て、現職。
 1997年4月財団法人日本臨床心理士資格認定協会認定臨床心理士(登録番号第6631号)資格取得、2001年10月 日本教育心理学会認定学校心理士資格取得

http://www.kyousyokuin.or.jp/waiwaisquare/letter/index.html
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ゆみさんのメンタル・スケッチ④「ポキッと折れない話」

 『月刊JTU』2014年1月号「ゆみさんのメンタル・スケッチ④」より、「ポキッと折れない話」の引用。
 先日、テレビの刑事ドラマを見ながら、ソファーでうとうとしていた時のことです。ドラマはいつの間にか最終場面になっていて、どういう展開であったのかはわかりませんが、年配の啓司が、仲間の刑事にどこかの屋上で語っている言葉に、はっと、反応し目が覚めました。
 「なあ、○○。この仕事をしている限り、やりきれなくなるのは一度や二度じゃあない。(ポンと背を叩く)とにかく、目の前の事件は解決したんだから。」その俳優さんが遠くを見る目に哀愁が漂い、エンディングの音楽が流れる中、私はすぐにソファーの横のメモ用紙に、そのセリフを書き残していました。
 ひねりのあるかっこいいセリフではないのですが、「ちょっと待って。これって、私に言ってくれている?」とぴんときたのです。教職員の方も、同じ気持ちになるのではないでしょうか。
 私のような仕事(産業、労働の場面での精神衛生を扱い医者)をしていると、弱者に寄り添うという医師としての大前提ですら、薬物療法・個人の精神療法を主体に治療に臨んでいる時とは少し違います。個人の側にも組織の側に残った傷ついた感情を、どう介入したら良かったのか、杓子定規にまとめようとしたことで傷つきは癒されていなかったのでは、とやりきれない思いが残ることが多いのです。
 「感情労働」と言う言葉を最近耳にしますよね。医師や看護師、介護士等と、仕事現場は様々ながら、教職員の仕事はまさに、この、感情労働です。どんな仕事も、肉体・頭脳・感情を使うのは当然ですが、その割合には職業的な違いがあることを、自覚していかなければ、有効な仕事上の成長や、休息、プライベートの充実が無理になります。教職員は児童生徒、保護者、同僚、上司、いつも「人間相手」。相手のネガティブな感情が強かった時、それを受け止め、ポジティブにしていくのには、こちらの感情をコントロールして使わなくては始まらない。こういった仕事をする誰もが無意識に了解してきたことです。特に責任感が強く、ひたむきな気持ちでこういった「感情労働」に努めてきた方が、ここからここまでという線引きができない状況で、理解者も少ない状況が長く続くと、ポキッと心が折れてしまう、いわゆる「燃え尽き」が起きてしまいます。私の臨床経験では、教職員の燃え尽きと思われるうつ状態は、多いようです。
 では、どうすればよいのか。感情を押し殺すというネガティブな側面ではなく、(倍返しはパワーが要りますのでさておきますが)感情的に疲れ切らずに、どこまでどう表出していくかという議論も始まっています。こんなアプローチが出てきたことは心強いことです。
 冒頭の刑事さんのように、やりきれない感情を、理解しあえる仲間がいる、というのも燃え尽きを予防する上で平凡ですが大切なことだと思います。「目の前のことがとりあえず解決できたなら、それを評価し一歩ずつ先へ進めばよい」、と言ってくれる仲間は本当にありがたいものですね。
牧由美子(精神神経科医 労働衛生コンサルタント)

カナダ視察から インクルーシブ教育とは障害児を包容する教育か

 『月刊JTU』2014年1月号より、「カナダ視察から インクルーシブ教育とは障害児を包容する教育か」の引用。
 12月号の和田明さん(障害教育本部長)に引き続いて、一木玲子さん(筑波技術大学)と和田さんとご一緒させていただいた。カナダのブリティッシュ・コロンビア州(BC州)のインクルーシブ教育視察について感想を述べさせていただく。
 印象的だったことの1つは、「普通学級」に相当する言葉が学校訪問やさまざまな説明の際に、ほとんど出てこないことだった。もちろんリソースルームや一緒ではない環境は一部あるのだが、特別支援学校や、特別支援学級との対比で、「普通学級」という言葉を使用するのが常識となっている日本の現状からすると新鮮な思いだった。
 唯一例外だと感じたのは、80年代に特別教育コーディネーターという立場ながら、BC州でのインクルーシブ教育実現へのリーダー役を務め、現在は引退されている方だった。その方からは、「普通学級」という言葉を多く耳にした。それは80年代の実態がインクルーシブでなかったことを示しているのだろう。
 もう1つ心に残っているのは、やはりその方の言葉で、「インクルーシブ教育を進めたのは、政治的に迎合したからではない」という趣旨の発言だった。背景にあるのは、親の会のインクルーシブ教育に積極的な姿勢だった。私がアジア太平洋代表を務めているインクルージョンインターナショナル(国際育成会連盟)のカナダの加盟組織は、1985年に組織名に「地域生活」を掲げるという私たちのネットワークでも非常に先進的な組織である。
 なお、和田さんが書かれている「障害を多様性と受け止める」という観点からは、2013年12月4日に国会で承認された障害者権利条約の公定訳がインクルーシブ教育を「障害者を包容する教育」と訳しているのは残念であり、誤解を招く恐れがある。なぜなら、インクルーシブ教育は障害児だけでなく、移民の子どもなど他の多様性をも射程に入れた概念だからである。
 多くの刺激を受けた貴重な視察の成果は、まとめた形で皆様に提供させていただく予定である。
長瀬修(立命館大学 生存学研究センター招聘研究教員)

PIAAC(ピアック)とPISA(ピザ)

 昨夜のテレビ、「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」で、「PIAAC(ピアック)」と「PISA(ピザ)」を取り上げていた。
http://www.tv-asahi.co.jp/manaberu/
 PIAAC(ピアック)というのは、始めて聞いた。

国際成人力調査(PIAAC:ピアック)※PIAAC:Programme for the International Assessment of Adult Competencies
 経済のグローバル化や知識基盤社会への移行に伴い、OECDに加盟する先進国では、 雇用を確保し経済成長を促すため、国民のスキルを高める必要があるとの認識が広まっています。このような中、OECDでは、各国の成人のスキルの状況を把握し、各国の政策に資する知見を得ることを目的として、初めて本調査を実施しました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/data/Others/1287165.htm

「いただきます」の意味

 『ふれ愛交差点』2014年1月号よりの引用。
 「家族と食のだいじな話 第1回 「いただきます」の意味」
 給食の残食率が20%を超える学校があります。子ども達が平気で食べ残す時代です。親も親。「無理に食べさせないでください。学校に行きたがらず困っているんです」「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないでください」と学校に申し入れた母親がいた、なんて話があったり。
 私たちは食べ物を食べて生きています。生きることは食べること。そして、すべての食べ物は命です。肉も魚も野菜も米もすべてが、種を残そうとする生命体です。人が生きることはそんな命をいただくこと。「いただきます」は、そんな命を「いただきます」なのです。食べ物を粗末にすることは、食材の命を粗末にすることです。
 そして、食卓に並ぶ食べ物には、食材だけでなく、もう一つの命が込められています。作ってくれた人の命です。お母さんの寿命が80歳だとします。とすれば、お母さんの命は80年間という時間だとも言えます。朝ご飯を作るのに1時間。その間ご飯には1時間分のお母さんの命が込められています。
 朝ご飯に1時間、昼ご飯に1時間、夕ご飯に1時間。1日の食卓には3時間分のお母さんの命。子どもを喜ばせようと、料理が食卓に並ぶまでに費やした時間分のお母さんの命がそこにはあります。
 食べ物を粗末にすることは、作ってくれた人の命を粗末にすることなのです。
佐藤剛史(さとうごうし)
 九州大学農学部助教。食、農業に関する講演やワークショップを幅広く展開。講演活動は年間100回を超える。著書に『ここ-食卓から始まる生教育』(内田美智子との共著、西日本新聞社)、『すごい弁当力!-子どもが変わる、家族が変わる、社会が変わる』(五月書房)など。

地域により違う「お雑煮」

 お正月です。
 昔は、各家庭でお雑煮の味や具に違いがあったでしょう・・・その土地の特産物によって、味が違っていたと思う。
 でも、現在はそれが伝承されなくなり、均一的なお雑煮になっていないでしょうか?
 核家族で伝承されなくなったと思われます。核家族では、父親方、母親方どちらのお雑煮になっているのでしょう?
 やはり、母親方かな・・・。
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ニャン太郎

Author:ニャン太郎
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