ディスレクシアと合理的配慮①

 『内外教育』2018年4月3日より、「ディスレクシアと合理的配慮」第1回、「読み書きが困難とは?」の引用。
 ディスレクシアはギリシャ語のDYS(できない)とLEXIA(読む)をつなげた医学用語である。書くことが困難なディスグラフィア、計算が困難なディスカリキュアなどと並んで、発達障害の中の学習障害(LD)の中核症状といわれている。
 LDは発達障害の中でも一番大きな部分を占めているにもかかわらず、見た目では困難さが分からないことや、社会性や行動の問題が顕著に出ないため、保護者や教員、さらには本人も気付かずにいることが多い。
 文字ができて数千年、世界を見回せばまだまだまだ識字率が低い国や文字を持たない文化もある中で、日本は識字率こそほとんど100%だが、実際には読み書きの困難を示す児童生徒の数がは意外に多い。文部科学省の調査でも通常学級にいる児童生徒の4.5%が学習に困難を示しているとされている。
 先天的な脳の機能の問題といわれているので、ただやみくもに音読の練習を重ねたり、漢字をひたすら何百回も練習したりしてもほとんど身につかず、教師も保護者もがっかりすることが多い。しかし、一番がっかりしているのは本人である。叱咤したり、課題の量を増やしたりしたのでは埒が明かない問題である。
 発達障害者支援法、障害者差別解消法や教科書バリアフリー法など数々の法律ができ、施策もそろってきているが、まだまだ現場では混乱が多くみられるのが現状である。教材や教え方を調整・変更すれば対応でき、本来の力を発揮できるはずなのだが、まだそこまでいっていない。
 教師もディスレクシアかどうかを見分ける方法を持っている人はほんの一握りで、発達障害の専門家も自閉症スペクトラムやADHDなどの社会性や行動面における問題については対応できても、ディスレクシアへの対応ができる人はそれほど多くない。
 まずは理解をして、大変さに気付き、その程度や表れ方のアセスメントをし、できることをうまく使い、環境整備をして一人一人のニーズに応えることが大切だ。そうすれば本人は、学習内容を理解して、自分なりの表現方法を使用していくことで、「障害」を「強み」に代えていくことができる。
 ディスレクシアがある人たちを苦しめるのは、外見で分からないということである。スポーツができ、発言もしっかりとしていて、友人もいるし、ルールも守っているとなると、支援の対象として挙がることは少ない。自分でも他の人と自分はどうやら何か違うようだとは感じているのだが、それが何だか分からないまま時が過ぎていく。ディスレクシアのほとんどは通常学級に在籍しており通級に行っても対応がされないことが多い。
 保護者からの訴えで多いのは、ディスレクシアの診断を受け、合理的な配慮を求めても、学校からは「前例がない」「1人だけ特別なことができない」「自分できちんと周りに説明ができたら」「何をしたらいいか分からない」など、実にさまざまな理由をつけて、対応がされていないということである。
 これから1年にわたって、ちょっとした工夫、ニーズに合った教材、人材、指導方法、支援やスキルを紹介し、このような現状を少しで変えることができたらと思う。
(藤堂栄子=認定NPO法人エッジ会長)

道徳の教科化 心を枠にはめぬよう

 2018年4月2日の朝刊の社説より、「道徳の教科化 心を枠にはめぬよう」の引用!
 これまで教科外の領域とされてきた道徳が今春から小学校で、来春からは中学校で正式な教科となる。国が定めた価値観が押し付けられないか気がかりだ。子どもの自由に考える心を尊重したい。
 道徳の教科化を警戒する声はいまだに根強くある。なぜか。
 かつて、教育勅語に基づく修身科を核とした軍国主義教育が、戦争に国民を駆り立てる役割を果たしたからだ。国が指定した価値観を注入するというやり方での道徳教育は危うい。それが歴史の教訓だった。
 戦後七十年余。再び徳目主義による道徳教育が強められた。
 「節度、節制」「感謝」「家族愛」といった徳目の価値を検定教科書で学ばせ、その成果を評価して通知表などに記述する。愛国心をはじめ、教育勅語でうたわれたほぼ全ての徳目が含まれている。
 子どもの道徳性を高める学びは大切だ。しかし、国が望ましいとする人物像に照らして成長ぶりを見取り、評価しては、国にとって都合の良い国民性ばかりが育まれることになるのではないか。
 道徳の教科化は、二〇一一年に大津市で起きた男子中学生のいじめ自殺が契機になったとされる。
 一七年度の全国学力・学習状況調査では、小学六年生、中学三年生のいずれも九割以上は「いじめは、どんな理由があってもいけないこと」と答えている。それなのに、後を絶たないのはなぜか。
 徳目の価値を説き、子どもの心のありようを規制しても実効が上がるとは思われない。心の問題として捉えさせるあまり、いじめの背景に潜んでいるかもしれない家庭や学校、社会の矛盾がかえって覆い隠されては困る。
 道徳教育の強化により、社会的課題に対する批判精神を欠き、現状を安易に追認、順応するだけの子どもが増える事態を恐れる。
 国は「考え、議論する道徳」を掲げて、そうした懸念を否定している。物事を多面的、多角的に考え、主体的に行動する基盤となる道徳性を養うという。
 だが、学ぶべき価値観が決められていては、議論する意味合いは薄れるだろう。評価を気にする子どもは、本音と建前を使い分けて振る舞うかもしれない。
 国語や算数などの教科とは異なり、道徳は科学ではない。道徳性とは本来、具体的な暮らしや人間関係を通して備わるものではないか。抽象的で画一的な徳目にこだわらず、個々の子どもの実情や境遇を踏まえた教育を望みたい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018040202000155.html

飛龍高で免許外科目授業 05年度から

 2018年3月24日のニュースに、「飛龍高で免許外科目授業 05年度から」というものがあった。
 「免許法」って、変だよね!
 申請をすれば、免許を持っていなくても授業をしてもいいんだね。でも、申請をしないと無免許になってしまうんだね!
 こんなことが、他でも通用するのかな???しないよね!
 例えば、車の免許がなくても申請すれば、車を運転してもいいなんてことはないでしょう。無免許は無免許なんですよ。
 人件費を削減して、安い教育をするために、「申請すれば無免許でもOK」なんて法律を作ったんじゃないのかな???
 この学校は、無免許の授業をした教科の補習をすると書いてある。でも、「届け出をして無免許」の学校は、免許のある教員が補習なんてしないんでしょう?
 とにかく、納得ができない法律だ。
◆免許法違反の疑い
 沼津市の飛龍(ひりゅう)高校で少なくとも二〇〇五年度から、教員が免許を持たない科目の授業を行っていたことが同校への取材で分かった。県私学振興課は、教育職員免許法違反に当たる可能性もあるとみて調べている。
 井出啓之(ひろゆき)校長によると、同校では時間割をスムーズに組むなどの理由で、教員が免許外科目の授業をすることがあった。本来は校長が県私学振興課に「免許外教科担任」の申請をする必要があるが、同校は申請していなかった。
 一六年度に就任した井出校長は「教員や教科主任から報告がなく、免許外科目に気づけなかった。教科主任は『校長が申請していると思った』と話しており、意思疎通にミスがあった」と説明した。同校で免許外科目の授業が始まった時期は「〇四年度以前は資料が残っていないので分からない」としている。
 同校には現在、教員百十一人と生徒九百九十三人が在籍している。在校生については、二年生百二十一人が地理や世界史で免許を持たない教員の授業を受けており、同校は補習や課題提出で対応する方針。
 保護者から問い合わせや苦情も寄せられているといい、井出校長は「生徒には弁解のしようがない。今後は誰がどの免許を持っているかを学校全体でチェックしていく」と再発防止策を語った。
 県私学振興課の担当者は「今は学校に資料提出を求めている段階。対象となる教員が多く、いつまでに調査を終えられるかは未定」と話した。
(杉原雄介)

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/tokai-news/CK2018032402000103.html

 「毎日新聞」2018年3月9日 地方版にも、「飛龍高 免許外科目で授業 11年度から継続か、県が調査 /静岡」と出ていた。
 私立飛龍高校(学校法人沼津学園・沼津市東熊堂)で少なくとも2011年度以降、地理歴史の免許を持たない公民の教諭が地理や日本史の授業を継続的に行っていた可能性があることが、同校関係者への取材で明らかになった。教育職員免許法に違反する疑いもあるとして、県が調査に乗り出した。
 同校は2月8日、県私学振興課に「今年度の地理、日本史で免許を持たない公民教諭2人に授業をさせてしまった」と報告。対象の2年生2クラス61人と3年生3クラス78人に単位認定のため補習や課題提出を求める対応を決めた。しかしそれ以外の免許外の授業についての報告はなかった。
 県私学振興課の田中真生課長は「生徒が決められた教育を受けることが学校では最も重要。事実関係を調査したい」と話した。一方、同校の井出啓之校長は「以前の資料は高校に残っていないため確認が取れない。当時から残っている教諭に今後聞き取り調査を行う」としている。
 教育職員免許法上、例外として他の教科の免許を持つ校内の教諭が1年に限り免許外の教科を担任できる「免許外教科担任制度」があるが、飛龍高校はこの制度の適用を受けるための県教委の許可を受けていない。同法は、教育免許を持たない者を故意に教員に任命・雇用した者には30万円以下の罰金に処すると定めている。【石川宏】

https://mainichi.jp/articles/20180309/ddl/k22/100/308000c

考える力とスポーツ

 2010年8月12日の「静岡新聞」の「時評」に「考える力とスポーツ」というのが載っていた。
自己の能力向上に重要
 世間では、「勉強をとるか、スポーツをとるか」という選択が存在する。また、スポーツ界では「競技力があれば、勉強はできなくても良い」といった風潮があることも否定できない。しかしこうった考え方で良いのだろうか。
 トップアスリートたちのパフォーマンスは、優れた身体的才能とその身体を鍛えるトレーニングだけで構築されているのではない。そこには必ず「考える力」が必要となってくる。ここで言う「考える力」とは、トレーニングの原則である「意識性の原則」を指すのではなく、自己の現状、目標を達成するためのプロセス、パフォーマンス向上を導く手段、トレーニングの効果、自己の課題などを考え、そしてそれぞれに対する知識を高めていくといった広範囲のことである。
 こうした「考える力」は、トップレベルに到達することを可能にし、身体的才能と共に重要な才能である。トレーニングでは、身体だけでなく考えながら行うことによって、その効果を最大限にまで引き出すことができる。こうした「考える力」の必要性は、年齢が上がるにつれてどんどん増していく。幼少期から「考える力」を身に付け、年を重ねるごとに発展させるべきである。
 では、この「考える力」を身に付けるにはどのようにしたらいいのだろうか。まずは、勉強習慣を身に付けることである。勉強を通じて、考えること、知識を身につけることを習慣付ける必要がある。学校における授業と家庭での学習を合わせた時間は、トレーニング時間と比較しても確実に長くなる。そうした時間の中で考えることが習慣化されれば、トレーニング中に「考える力」を発揮する基礎が身に付く。
 そして次に、考える習慣をトレーニングに置き換えることである。つまり、さまざまなテーマについて選手自らが考える機会を持つ、あるいは持たせることである。また、自分の身体の動きを感じ取りながらトレーニングすることも、「考える力」を養成する。指導者の指示通りに動くだけでは、「考える力」を身に付けることは不可能であり、操り人形になってしまう。そして、常に向上心を持って目標を達成するための努力について考え続けることである。レベルが高くなると、求められるものも難易度が増していく。
 こうした状況では、「考える力」が無くては自己の能力を向上させていくことは不可能であろう。「考える力」を使ってスポーツをすることは、身体を使うことと同様、あるいはそれ以上に重要である。また一方で、勉強する力があればスポーツにも活き、スポーツで「考える力」があれば勉強にも活かせるはずである。スポーツと勉強は、相互に良い影響を及ぼすことができることを忘れないでほしい。
*杉本 龍勇(すぎもと・たつお)
 沼津市出身。浜松北高-法政大-ベルリン工科大-中京大大学院卒。バルセロナ五輪陸上男子短距離日本代表。法政大学経済学部准教授、Jリーグ清水エスパルスフィジカルコーチ。県体協理事。専門はスポーツ経済学。

『増補版 ちょっとしたスペースで 発達障がい児の脳と感覚を育てる かんたん運動』森嶋勉 著、太田篤志 監修(合同出版)1700円+税

子どもたちに身体を十分につかってあそぶ機会を!
 子どもたちが取り組みやすい運動を写真で紹介。学校の休み時間や家庭での空き時間に、手軽な道具を使ってできる楽しい運動あそびが満載です。
 ロングセラーの増補版!
*森嶋勉(NPO法人チャットチャット理事長)
*太田篤志(姫路独協大学客員教授)
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ニャン太郎

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